オマエのものはオレのもの。オマエの批判もオレのもの。

こんにちは、あやめです。

 

イケハヤさんの記事に刺激を受けて記事を書いています。

プロブロガーのぼくが「毎日6本」記事を書いてるんですよ?なんであなたは「毎日1本」しかアップしてないの?

しかしながら、あの記事はわたしに向けて書かれたものではありません。

しかし、私に向けられたものであると勝手に解釈しております。

それは、ブロガーを目指しているから。

 

誰かの記事を批判として受け入れる。

イケハヤさん記事はまさにそうです。

悔しくて書いているうちに、隠居系男子男子さんの記事を思い出しました。

隠居系男子:批判的な意見を見つけたときの心構え。

「批判的な意見は無視するのが一番!」は本当か。

今のウェブ上では、批判的な意見を見つけたときの心構えは、声が大きい人たちの主張する「無視するのが一番!」という意見が正論のようになっています。

しかし、僕はあまりそうは思いません。

もちろん、取るに足らない意見というのも多数存在することは間違いないですが、大体目に入ってくる批判というのは当たっています。

当たっているからこそ、自分の目に入ってくるんです。当たっていない批判はそもそも、自分の目に入ってきませんからね。

ついつい読んでしまうような批判を書いてくれる人というのは、本当にドライに、冷静に分析してくれていることが多いので、「これは自分でも気が付かなかった!」と思うような意見を投げかけてくれているものです。

かなりドストライクでした。

そして、わたしの場合はたちが悪い。

たくさんかけってこと大事だと分かっていたにも関わらず書かなかったのです。

自分の怠けぐせ・雑さを見破られたような気がしました。

オマエ関係なくね?

知っているひとなのか、ネットの他人なのか

親密度は関係ありません。

知っている人が語ってくれたことばでなければ関係ない

というのならば

私にとって聖書は関係のない書物になるでしょう。

 

聖書は元々をたどれば

ユダヤ人の歴史であり

イエス・キリストの語ったことば集であり

イエス・キリストの弟子が教会に宛てた手紙集であります。

この中で、私を名指しして書かれたものは全くありません。

軽く2000年以上前の書物ですからね。

当然です。

しかしながら、キリスト教はイエス・キリストが地上を去った後も

その教えを深く守り

2000年以上経って私の心の支えになっています。

これは、クリスチャンにかぎらず

仏教徒や他宗教でも当てはまると思います。

 

結局は何を信じて動くのか

聖書や経典も信じるものがいなければ

ただの落書きでしかありません。

言葉をまっすぐに信じて行動した人がいたからこそ

そのことばは真実として語られるのです。

例え、辛い言葉があったとしても

真実として受け止められるのです。

もっとブログ書くぞ!