クリスチャンは生き方。百合はホーム。

こんにちは、あやめです。

クリスチャンと百合クラスタを両立させようした時、

この2つはどんな立ち位置なのか向き合ってみました。

どっちも捨てられない大事なものだから、ちゃんと紹介してあげたいのです。

クリスチャン:わたしの生き方

生まれる前から存在を知ってもらっていて、幼いときは当たり前のように教会へ行っていました。

子供向けの礼拝では暗唱聖句といって、

一節何も見ずにいえるようにするということもしていました。

また、大人の礼拝が終わるまで、聖書関係のマンガや絵本をずっと読んでいました。

読んでいるうちに、聖書の物語が心に刻まれていくんですね。

何かトラブルに見舞われても、聖書の物語や聖句がわたしの背中を押してくれるのです。

ちなみに、今私を支えてくれている聖句は

詩篇23編4節:たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わたしはわざわいを恐れません。あなたがわたしとともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それがわたしの慰めです。

まさに今こんな状態です。どんなときも神さまが近くにいてくれる。

さびしがりやには本当に嬉しいことなんです。

また、クリスチャンとして教会につながっていたからこそ導かれた縁がたくさんあるのです。

わたしが何かを語る上でどうしてもキリスト教の考え方を隠すことはできません。

 

百合:ホーム

わたしにとって、百合は愛するべき存在です。

どんなに疲れていても、百合を読むとつかれが一気に吹き飛びます。

愛するというと頭がおかしいみたいですが、

幼いころおもちゃやぬいぐるみが大好きだったとはありませんか?

わたしの場合はネコのぬいぐるみで、どこに行くにも連れて行って話しかけて遊んでいました。

その大好きのポジションに百合が収まっているのです。

本当なら、そろそろこのポジションに恋人が収まってもいいのですが残念ながら今はいません。

その代わり百合に愛を注ぐことにしています。

もし百合を愛することをやめたら、愛することを忘れそうなんです。

キリスト教では、愛は積極的に教えられていますが、

仏教では愛は「愛欲」という煩悩の一種で執着だといいます。

執着しているから手放せなくなっているのだと。

仏教の「慈悲」キリスト教の「愛」

仏教サイドので百合への愛を見るとき、

この愛情は執着なのかと一瞬頭をよぎります。

もしも百合より愛する存在が現れたとしたら、そちらに向かうかもしれない。

でもそれまでわたしは百合を愛したい。百合はわたしのホームです。